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389-0115 長野県北佐久郡軽井沢町追分51-37 TEL・FAX 0267-46-3312 郵便振替 00500-7-32001

牧師館へようこそ

<牧師プロフィール>

稲垣壬午(いながき・じんご)

1942年東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科(新約聖書神学専攻)卒業後、倉敷教会、琴浦教会、緑野教会、大津教会、翠ヶ丘教会の牧会を経て、2002年4月より軽井沢追分教会に着任。以後、当教会の宗教法人設立に尽力し、組織整備や地域伝道に力を注いでいる。

常に社会における弱者に視点を置いた活動を続けており、当教会着任後もカルト宗教脱会者を支援するNPOの運営にも携るなど、狭義の「教会」内にとどまらない活動を行っている。

また、地域の牧師や住民とともに「軽井沢9条の会」を立ち上げ、憲法九条の改憲の動きに強く反対し、平和を希求する立場を貫いている。顔写真では一見穏やかそうに見えるが、権力に対する反骨精神は並々ならぬものがある。礼拝堂の中の背広姿より作業服と長靴で軽トラを運転する姿が様になる牧師。

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e-mail : jingo@tama.net

天声JINGO アーカイヴ

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2019.10.6「信仰による富を」

 

10月1日から消費税率が10%に引き上げられて、その理解しがたい徴収の仕方などで大混乱が報じられている。増税理由が「社会保障」や「財政危機打開」のためと言われても、増税率が「大企業」や「富豪層」の減税率とほぼ見合っていることくらいは、経済に疎い私でも察しがつくのだが間違っているだろうか。一方聖域なしで湯水のごとく注がれる軍事費はうなぎのぼり。幼児教育の無償化は結構なことだが、それも批判かわしの煙幕にしか思えず、そこにも在日韓国・朝鮮人差別の根が太く這っている。事実、広範囲で本当に援助の必要な最底辺の人々が切り捨てられているではないか。労働者の過労死問題は、人間の使い捨て状態、奴隷化としか言いようがない。ルターが“藁の書簡”と見下した「ヤコブの手紙」は、今の我々の教会という群れが聞くべき福音の真髄を単純明快に示し迫ってくる。その「ヤコブの手紙」2章1〜9は“金持ちと貧者”について述べている。「〜人を分け隔てしてはなりません。」(1節)。極端な経済格差を産み出している政治家や官僚たちに聞いて欲しいぴったりの言葉だ。いやこの手紙は紛れもなく教会共同体のあるべき姿を取り戻そうとしているのだ。5節では「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ〜」と言っている。もともと旧約の初めから、神が相手にしてきたのは、アダムとイブのような罪人、アブラム族のような流離の民族、イスラエルとされたヤコブは逃亡犯、エジプトでの奴隷、バビロニア捕囚民であり、イエスの時代でもローマの属国民であり、それらが「神の民」の偽らざる姿なのだ。わたしたちのキリスト教会という共同体の「いと小さき」姿なのだ。そんな貧しく小さい私たちを見つめ続け、救いと癒しの手を差し伸べて続けてくれているのがキリストであり、そこに天の国が実現するというのだ。

巨大な富と権力に縛られ、恫喝され、押さえつけられ、貧しくされ、ものが言えなくされ、目が見えなくされ、耳が聞こえなくされて行く人々が増えれば増えるほど、主の癒しの場へと招かれ集められる人々は尽きなくなることは必至であろう。信仰による富の分かち合いの場所としての「教会」の価値が試される時代到来かもしれない。

 

2019.10.20「台風19号日誌」

 

超大型台風19号の影響は先週12日(土)の午後からここ軽井沢にも出始めた。折しも三浦修牧師率いる音楽伝道団による当教会の秋の伝道賛美礼拝が翌13日(日)の午後に予定されていた。ピアノの山下恵姉とボーカルの和泉あつ子姉とそのお子達3名は、台風で碓氷峠が通行できなくなる前にと、和光市から12日朝車で出発、峠が通行止めになる寸前の昼前に到着することができた。しかしオルガンの木村協子姉と練習中の午後3時に停電。急遽リードオルガンの使用や曲目変更などの打ち合わせにおおわらわ。外は時間を追うごとに風雨も強まる中16時頃に木村協子姉帰宅。牧師館とゲストハウスではクリスマス用品からローソクを探し出し灯し、夕食はコメを土鍋で炊きレトルト食品のカレー等。夜中は間欠的に激しく吹き降りまくる嵐に息を凝らして早めに寝る。13日の朝は、台風一過すがすがしい青空とはいかなかったものの、雨は上がり、風もほとんどなく、青空も見えるようになった。牧師館北側駐車場入り口の看板が見事に枠ごとコイノニアの窓下まで吹っ飛んでいた程度の被害で、道にも倒木もなく一安心。それからが大変、なにせ停電が続いているので、プリンター、印刷機が使えず週報他の印刷物が出来ない。山本泰二郎兄の車がかけつけてくれ、車からの電源を使って週報などの印刷ができ一安心。昼前には宣教者の三浦牧師が、甘楽教会の丸岡姉の車で高崎市中室田から、途中横川の釜飯を仕入れて到着し、12時からスタッフ一同挨拶と昼食。リードオルガンとピアノのピッチが合わず、急遽栄光顕彰の曲目の変更と練習で奏楽者は大変であった。変更曲目は�モーツアルトのAve verum corpus �讃美歌572「球根の中には」�サンサースのAve Maria �モーツアルトの「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」から3 Alleluja 。

14日(月)4:30印西市から久世兄が発電機を持ってきてくれたので、三浦牧師・丸岡姉と明るい電気と暖房の中で朝食をとり、帰られた。今回電気のありがたさと共にすっかり電気に奴隷化された自分と社会の姿が浮かび上がった事と、3.11に続き自然界の連続する逆襲にノックアウトされた社会の姿がより鮮明に浮かび上がったと思う。十字架の苦難と死の世界が彷彿とさせられるのだが、必ず復活の命の光が用意され待っていてくれることを信じたい。

 

2019.10.27「天皇の即位礼考」

 

超大型台風19号による甚大な被害、さらに22日の大雨警報による土砂崩れや再洪水への不安に被災地が包まれている中、23日に「天皇の即位礼正殿義」が、各国の元首、王族199名と政府高官ら三権の長、閣僚、知事、各界代表計1999人が参列し行われた。さすが大雨の中、祝賀パレードは中止となったが、私は第一に国難の緊急時になぜ執行せねばならないのか? 第二に、戦前の「現人神」であり「主権者」であった「天皇絶対主義」の時のやりかたをそのままを踏襲するのか?という疑問を持った。

新天皇の就任の言葉は「〜ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います〜」(抜粋)と、安倍政権の憲法改定草案における精神に真っ向から対立するような素晴らしい誓いの言葉だと思った。しかしその言葉とは裏腹なのがあの舞台装置である。今までも何度も私が言ってきたが、この際現在の「象徴天皇制」の問題点を指摘しておこう。勿論キリスト教信仰(唯一神)の立場からである。

1)「天皇」という名称の問題性は、「象徴」がついていても「天皇」という以上、天の皇帝・王ということであり、それは「God」そのものを意味するからであります。そのことは舞台装置にも象徴されています。「高御座」は天孫降臨神話に由来していて、そこには「三種の神器」が置かれている。まさに神話の世界そのものです。

2)「大嘗祭」これも新天皇即位に伴う宗教儀式です。これは天皇が神々と共に食事をして、五穀豊穣を祈るという儀式ですが、東宮御所内に大嘗宮と言われる約2,000坪に30の建物(数十億円)を建設し、11月14日〜16日?に予定されている神々との共食は、天皇自身も神々の列に加えられるという、いわば「大祭司」であるとともに「祭神」ともなる宗教儀式。その後伊勢神宮参拝と続くそうだ。以上のことだけでも、「信教の自由、国の宗教活動の禁止」(19条、20条)の精神に反していることは明らかである。歴代政権は天皇代替わりの折、憲法との整合性について悩んできたふしはあるのだが、今の安倍政権はそのような迷いや戸惑い悩みは一切ないようだ。はるか上の高御座見上げて万歳を叫ぶ安倍総理の姿には「国民主権」の姿はないように映ったものだ。

 

2019.11.10「後光さす人を見た」

 

 私が一日中一人で机に向かって、原稿書きや事務仕事をしていると、しばしば予期せぬ仕事(来客や外出など)が舞い込んで来る。いつまでもそのまま処理出来ないで放ったらかしにして、「あゝ、忙しい忙しい」と嘆くことしばしばである。その証拠は現在私の仕事場としているコイノニア(集会室)の広いデスクの上の散らかり様である。そのゴミのような書類や書籍の山に囲まれて、さて「天声JINGO」は何を書こうかと思案し始めるのであった。それも邪魔の入らない早朝が多いのだが、どうしてもぎりぎりまで手がつけられないのが常である。今回も土曜の朝になってしまったが、どうしてもこのタイミングで、先週思いもかけず出会った人のことを書かせてもらうことにした。

 それは4日に開催された「教会音楽の集い」でのことである。その人とは、須坂教会員の和久井輝夫さんである。彼は須坂市北相之島にお住まいで、今回の台風19号の洪水で住宅や作業場が濁流に浸かり、預かっていたオルガンやピアノもダメになってしまったとのこと。自分たちは前夜のうちに避難していて、無事だったことが何よりの救いであったとのこと。彼の仕事はピアノ、オルガンの調律や修理で、特に教会のリードオルガンの修理や古いものの再生などのエクスパートとして全国を飛び回っておられ、NHKなどでも紹介されている方だ。ユビラーテ奏楽者の会夏期研修会の常連でもある81歳。その彼がとんでもない災害に見舞われ、一切ではないにしても、一切に等しいものを失うという状況下において、へこたれることなくこの集会に来られ、いつものように上田新参町教会のリードオルガンの移動などを手伝い、何事もなかったかのような顔をしてそこに座っている姿を見た。さすが主を賛美する教会の“縁の下の力持ち“、その姿をこんな時にも保たれている! 私は、その姿を横目でチラチラと見ながら思った。まさに、今回の講習のテーマ通り、どのような人生の苦渋を身に負おうとも、淡々と「主を讃美する旅人」としての姿を保っておられる。その彼には後光がさしているようであったのである。

 

2019.11.17「どうしても頭を巡るのは」

 

 先月12日に見舞われた台風19号による長野県内の被災状況は、1ヶ月を経た今でも毎日、あまたの惨状やその中から必死に立ち上がろうとしている人々、すっかりあきらめて離農や閉店をやむなく決意した人々の姿をとおして報道され続けている。しなの鉄道は先週15日に全線が開通したものの、別所線は見通しが立っていない。ようやく諸学校や福祉施設なども再開したが、公的な避難住宅などの建設も始まったばかりである。須坂教会員の和久井さんは県の借り入れ住宅入居が当たったものの、清掃整備が進まずまだ入れていないと聞いた。住宅や庭、全滅したりんご畑などからの泥除去作業ボラティアの活躍が報道されるが、それはまだまだ一部であって、まったく取り残されている人々がどれくらいおられるのか気になるところである。全国的(特に東日本)レベルでも被災地域の惨状からの復興の兆しがないところがまだまだあるように聞いている。

 そんな中、新天皇の皇位継承の重要祭祀「大嘗祭」の中心儀式「大嘗の儀」が14日夜、15日未明には「主基殿共饌の儀」なるものが、24億4,300万円かけた大嘗宮で国事として行われたとの報道が大々的にされている。世の中を見回すと「天皇制」にどっぷりとつけ込まれていることに気付かされる。その第一の縛りは元号である。それはれっきとした天皇の御代を意味しているのである。私事とはいえども、大嘗祭の後も伊勢神宮等々への参拝が続く。新年の祭事も控えている。そしてそれは皇室内の祭事に終わらず、国内の政界財界等々をはじめ諸外国の機関を巻き込んで進められるのである。現憲法を尊重し、平和を願い、五穀豊穣を祈るというソフトなイメージを演出しながら、国の最高権力の頂点としての機能(政教一致)を暗黙のうちに強化していく。天皇制を云々することは、ますますタブー視されていくことに拍車がかけられていくのではないかと危惧するものである。あれやこれや思いを巡らせ、頭がぐるぐると回ってしまうこの一週間であった。

 

2019.11.24「主を待ち望むアドベント」

 

 安倍総理の通算在職日数が先週の20日で2887日となり、憲政史上で最長となったとマスコミでは大騒ぎだ。この国ではなんでも長ければ長い程、内容など一切問われずに褒めそやされ尊重されるようだ。勿論一部のマスコミは冷やかだが。私は「桜を見る会」の公選法違反への風当たりを弱める為のやらせ報道ではないかと思ってしまうのであった。そして虚構であったとしても「長い」ことを印象付けて権威を保持しようとしているのが現在の象徴天皇制である。いわゆる「万世一系」という「現人神」の血筋の証としての皇室神道の保持である。この「長」は、「高」「大」「多」という概念とも同質の価値観に通じるだろう。原発保持促進、軍事力増強、核兵器の保持支持、企業の統廃合などによる巨大化。政治の多数党強行採決等々はこの価値観の産物であることは明白である。歴史の長さなら「聖書」の歴史も負けていない。聖書の「神」はなんといっても、世の成らぬ先からいまし、天地万物の「創造主」なのだから。太陽をイメージした女神でもある「天照大神」などより遥かに大きな存在である。しかし「聖書」の誇りはそんなところには全くない。むしろ真逆の「短」「低」「小」「少」なるところに最大の価値があることを宣べ、前者の価値観を「悪」とし、その終焉を「ノアの洪水」物語で警告し、科学と技術で巨大化する社会の崩壊を「バベルの塔物語」で警告し続けているのである。聖書の民はダビデやソロモンの黄金時代からやがて民族滅亡の黄昏期に入っても、「平和、平和」と思い込んで予言者の警告を無視し続けて刹那的生活を貪り続けていた。やがて北イスラエルに続いて南ユダも滅亡(BC587)の憂き目にあい、バビロン捕囚になり下がり苦役に涙する日々にまで陥った。そこまで落ちた民に「救世主」を待ち望む叫びが上がり始めたのである。今の日本は聖書の民の王国時代の姿によく似ていると思う(エレミヤ書6:13‾15)。そこまで落ち込まないと目が覚めないのだろうか。来週から主を待ち望むアドベント入りだ。

 

2019.12.8「現代のヴィア・ドロローサ」

 

 紛争地帯で貧しい民衆に寄り添う医療活動などの人道支援活動を長年に渡ってなし続けてきた「ペシャワール会」の中村哲医師が、アフガンで何者かの銃撃を受け死亡というショッキングなニュースを4日夜聞いて床についた。5日の信濃毎日新聞では一面と三面で報道していたが、その犯行者は不明だとのこと。アフガンは「タリバン」や「イスラム国」と「政権」の三つ巴の紛争地域。しかしそこでの医療活動や灌漑などの農業支援活動は11年間続いているのになぜ今と訝る方は多いだろう。中村医師が2018年にアフガン政府から勲章を授与された事で政権寄りの姿勢と受け止められ、政府を支援する外国企業や諸団体を阻止し政府に打撃を与えようする者らのターゲットとされたのかも知れない。中村医師は2015年7月に日本で「戦争法」が成立した時に、「憲法9条は自衛隊の武力行使を制限してきた。今回の法案でその枠が外れる」と反対を表明している。アフガンには現在米軍が駐屯しているし、安倍政権は米国のトランプ政権の忠僕であることは世界中に知れていて、自衛隊の海外派兵云々も言っている。そのような日本政府の動向も、今回の中村医師殺害の動機となっているのではと勘ぐる私であった。紛争と温暖化によって砂漠化した地域で、特に貧しく紛争と飢えに苦しむ民衆に、純粋にその思いだけで寄り添い、なし得る最善を尽くしているだけなのになぜ? 6日の報道によると灌漑によって緑化した土地は30〜40倍の値が付き、軍閥による買い占めなどが横行していると言う。貧しく弱い立場の人間の善意は、どこまでも権力者や富裕層によって利用収奪され、醜い紛争に巻き込まれ命までも奪われてしまう現実を目の当たりに見せ付けられるのである。アドベントに入ったが、家畜小屋に降誕したキリスト、エジプトに逃避行したキリスト、十字架へ向かうキリストというページェントの現代版を見ているようであり、讃美歌410の2番の「教会よ、目をさませ。まどろみ打ち破れ」が心に響きわたる思いにおののかされた。

 

2019.12.22「主よ、我らを憐れみたまえ!」

 

 旧約聖書の登場人物はみんなクリスマスを待ち望んだ人々であったと思いますが、おかしな人ばかりが登場しているように思えます! 一番最初に登場するアダムとイブは、神様のいいつけを守らず失楽園。彼らの子どものカインは弟アベルを殺すし、その後世界に増えた人々は悪いことばかりをしていたので神のお仕置きの大洪水で滅ぼされている。自然界の大災害も人災との認識がここには確かだ。ノアという神に従う無垢な人(創6:9)がいて、彼を通してかろうじて世界は再生するが、その子孫たちはまたしても神の領域を侵そうとして言葉が通じ合わなくなりバラバラに散らされてしまう(創11)。この後アブラハムの旅立ち物語りが始まるが、この旅立ちは、言葉が通じ合わなくなった世界に、言葉が通じあう世界を取り戻していくための旅立ちでもあったと思う。その後の歴史においてエジプトでの長い奴隷時代と出エジプト、王国時代とその分裂と滅亡によるバビロン捕囚時代を経て、ローマの属国時代の正真正銘のクリスマスへとたどり着いているのである。クリスマスは、神自身が創造されたが堕落しきった人間救済のために、救い主を下界に送り込んだ出来事だ。この歴史の中で、人間全体が主の名を呼び始めたのは、言葉が通じ合わなくなって地に散らされた後であり、亡国の憂き目の時ではなかったか。民にとって「救い主」は、時にはノア、モーセ、ダビデ王、ペルシャ王キュロスであったりしたが、どれも本物ではなかった。そんな人間に、神が決定的に正真正銘の「救い主」の姿を顕に示したのが「あかちゃんイエス」の姿であった。そのことを証言しているマタイとルカ福音書の降誕の場面には、この世的華やかさは何も感じられないが、なんと暖かかく光輝いて見えるのだろうか。平和で充足感に満ちているのだろうか。現在、教会に行ったこともない、そして聖書の話を聞いたこともない世の子どもたちに、なぜ夢と希望の高揚感を与えるのだろうか。異教世界の巷で、どうしてクリスマスソングが響きわたり、飾り立てられているのだろうか。したたかなこの世の欲にまみれた「商戦」に踊らされているとはいえ、単にそれだけではないと思うようになってきた私である。この世の権力と金に物を言わせるばかりの嘘つきリーダーたち、彼らに忖度する取り巻きたち、物言う者へのヘイトや恫喝の世界。黙らされ、言葉が通じない時代だからこそ、主の名を呼び始めている「叫び」がそこかしこに響き渡り始めていると強く感じる今年のクリスマスである。主よ我らを憐れみたまえ!

 

2020.1.5「初詣考」

 

 日本社会ではほとんどの国民がいずれかの神社に初詣しているのではないか、と思われる光景が正月の風物詩となっている。いわゆる八百万の神々への祈願、つまり自分の欲求に応えてくれる神々への祈願である。私は結婚式希望者へのガイダンスで、聖書における祈り(唯一神礼拝)は、先ず神の言葉を待つことだと話してから始めている。他方神社での祈りは、自分の願いに応えてくれる神を崇めて願い事を捧げるのだが、それは神様神様といってひれ伏しているようでありながら、自分に仕えてくれる神であり、神との主従関係が逆転しているのではないかと問いかけている。しかしながら、我々キリスト教の祈りに於いても、神にああしてくれ、こうしてくれとの祈りはある。その場合一応神を神として立てるために、「御心ならば」と祈るのだが基本的には神道における祈りとかわらない場合が多いのではないだろうか。また、人間の霊魂と同時に自然界にも霊魂が宿っているというし、自然宗教の考え方も一概に排除はできない気がする。何故なら、聖書の神は天地の創造主であるからである。日本人の宗教環境は問われると漠然としていて説明に窮するかもしれない。「神社」という建造物がいたるところに建てられている現実、明らかに憲法の政教分離原則に違反しているにも関わらず、公官庁に神棚が設置されている現実がまかり通りっている。私はかつて倉敷時代に、倉敷市船倉町での神社の建て直しのための寄付金問題で、その地にあった倉敷平和教会の故片岡健吉牧師の反対集会を傍聴したことがある。健吉牧師に向かって町内会の結構若い衆が、自分が氏子でないというならお前は日本人ではない、アメリカの宗教がそんなによいならアメリカに行ったらいいだろう、と一蹴されていたことを想い出すのだが、それほど神社は日本人のアイデンティティーの象徴となって現在も厳然として存在しているのである。

 我々キリスト信者にとって、「教会堂=チャペル」が神社に相当するアイデンティティーとしての象徴であると思うのだが、個々人の生活の隅々にいたるまでのアイデンティティーとなっているだろうか。切実な人生(生活上)の、特に悩みや苦しみ悲しみの時の拠り所となっているのだろうか? 順調な時の方が寄り付きやすい「神殿」であると言う人もいるのだが。イエス・キリストのからだとしての教会、それは十字架への苦難と死を正面から受けとめ、死をも共にする神殿である「教会」をアイデンティティーとして明確化してゆきたいと夢想する正月である。 次週はそれに関連して、12月15日に掲載するはずだった「首里城再建への想い」をご紹介しよう。

2020.1.12「沖縄城考」

 

 沖縄市在住で、私の神学部の後輩友寄隆静兄より「沖縄タイムス」の「わたしの主張あなたの意見」欄への投稿記事のコピーが12月6日に送られてきた。そのタイトルは「県民の力で首里城復元を確信」であった。内村鑑三の著書『後世への最大遺物』に記されている、イギリスの歴史家カーライルの逸話をひいて書かれている。それはカーライルが10年かけて書き上げた「フランス革命史」の原稿を、あることで失ってしまい1週間ほど呆然としていたが、「おまえの原稿はつまらないからそうなったのだ」という心の声を聞き、憤然として原稿を書き直したという話である。友寄兄は「形あるものは壊れる」の言葉もあるが、県民の英知を結集して、必ずや素晴らしい首里城が復元されることと確信する、と結んでいる。

 私はこの投稿文章を読んで、とっさになんで?なんでと?と思った。それは私にとって首里城炎上が、ノートルダム炎上と同じで、惜しいな!くらいの思いしか抱いていなかったからである。友寄兄は福祉畑で、保育園事業に関わりながらも、辺野古の巨大にして総合的な米軍基地反対闘争の先頭にたっている人物でもあったし、首里城復元への彼の思い入れが腑に落ちなかったのだ。

 彼は私の後輩といっても、だいぶ学年が離れていたし、同じ寮にいても、当時はそう親しくはなかったと思う。それが懇意になったのは、私が追分に来てからの話である。9年前の2月南信分区有志の沖縄スタディーツアーに参加させてもらった時に、最後に宜野湾市役所に寄り「辺野古基地反対のためにとふるさと納税」を申し込んだ。帰ってきてすぐに、友寄兄から電話で、ふるさと納税者のリストに私の名があるといってその嬉しさを伝えてきた時からである。

 今回の便りは折しもアドベント入りしたばかかりの時に届いた。イスラエルのメシア待望の始まりにはバビロン捕囚があり、絶望の民への解放と故国帰還の予言が鳴り響いたところからアドベントは始まる。解放され故国に帰還した民が真っ先にしたことは神殿建設であり、神殿はまさにイスラエルの誇り、民族のシンボルであり自分が自分であるためのなくてはならない拠り所なのだ。そのアドベントのメッセージに触れて、それが彼の「首里城」とオーバーラップし始めた。歴史を通して列強により支配され収奪され続けてきた民族の、そして今まさに「そとなんちゅうと米軍」の横暴によって風前の灯火のような彼等の誇りへの執着心として、「首里城」再建は沖縄県民の最後の拠りどころ、沖縄県民にとってのアイデンティティーの唯一のシンボルとしてのお城だったのだと思うのであった。(12月15日掲載予定のもの)

 

2020.1.19「低俗な信仰考」

 

 12月15日の大失敗の天声JINGOを読みたいとの要望が結構寄せられている。人の失敗は面白い物だし隠されると余計に知りたがるのも人情だ。私には、思いついたらちょっとメモしておくネタ集ファイルがあるが、それを原稿として間違って編集者に送ってしまいそのまま掲載されたものであり、一つはローマ教皇来日の件。もう一つは安倍首相が国連の「地球変動サミット」で演説を申し出たが断られたという「ネタ」だった。普通ならネタを吟味し、人権、平和などの観点を明確にした文章を作る。このネタメモで問題とされたのはローマ教皇来日についてのコメントの最後の部分。それは教皇が最後の日に上智大学のキャンパスで群れ囲んいた一人の学生が涙しながら感激していた姿を、新天皇が伊勢神宮参拝の途中でその姿を間近に見た婦人等が感激してもうこの世に思い残すことはないと言っていた姿とダブって見えたことから、カトリック信仰の低俗性を垣間見たようだとコメントしたことである。それに対してカトリック信者への冒涜と受け止められかねないとの指摘を受けたのだ。こんな私のメモ程度の「ネタ」が何故そのまま掲載されたかについては、その弁明を12月29日の「天声JINGO」でさせてもらった通りである。さて本日は、問題とされた「信仰の低俗性」について説明させてもらう。テレビでの報道映像には、天皇を間近にした女性も、大学で教皇を間近に見た学生も、ワーワー、キャーキャーといったミーハー的側面が同じように映し出されていたので、それを見た瞬間の印象をメモったものだが、「信仰の低俗性」というのは、天皇や教皇を付和雷同的に、万歳万歳といっているように見えたことを言いたかったのだろうと思う。それはまたイエスのエルサレム入城の時の、民衆のホザナホザナと歓迎した姿(後に反イエスになる)と重なるのではないかと思う。実際ウエストミンスター大聖堂などで、大きな使徒像の足をさすったり、聖地の昇天ドームのキリストの足跡にキスしたりしている人々を目撃したことがあるが、日本の寺社での厄除けとか五穀豊穣、家内安全などご利益宗教とちっともかわらない姿が私の脳裏に去来したのである。だから決してカトリック信仰を揶揄したのではなく、わたしたちプロテスタント信仰者においても同じ低俗性を有している事だと思っている。よくよく考えてみると、その「低俗性」極まりない我々人間のただ中に神が降誕し寄り添ってくださったのがクリスマスではないか。もしこの部分に焦点を置いて書くなら、こういったまとめ方になっていたと思う。もちろん伊勢神宮参拝の新天皇への沿道の人々の万歳や感涙については、それだけ切り離して論じることになるはずである。

 

2020.1.26「祈りの場」

 

 次週の聖書日課による宣教のテキストは、いわゆる「宮清め」の場面である。この記事は四福音書に記載されている。次週の礼拝ではヨハネ福音書のこの場面をテキストとするが、「宮清め」という言い方は古い言い方だが、「宮」とは「神殿」のことである、現在は「チャペル=礼拝堂」のことである。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は「神殿は祈りの家」であると口をそろえて言っている。

 去年は我が神学校の母校、同志社創立144周年であった。全校あげての祝典が盛大に行われたことが校友会の機関紙1月号に掲載されていた。「創立144周年記念礼拝が同志社教会で、創立記念日祈祷会が創設者新島襄の墓のある若王子山頂の同志社墓地で、記念式典が現在の神学館礼拝堂でなされた。どの式におけるメッセージにも新島の設立の精神が繰り返しなぞられ確認されていた。それは毎年の記念日においてもそうである。ちなみに安中の新島学園でも神学部教授が来て、同じく新島伝が語られたそうだ。同志社にはレンガ造りのプロテスタントでは日本最古(1886年竣工)のゴシック建築のチャペルがある。定礎式で新島は「このチャペルはわが同志社の基礎となり、精神となるもの」と述べている。記念式典で同大学キリスト教文化センター三木メイ准教授がそれを引用し、「宗教が教育にとって不可欠であることが認識されていない日本における同志社礼拝堂の存在意義の重要性を新島が説いた」と語っている。私はかねがねマンモス化し、企業化していく同志社に失望しかけていたのだが、この記事を見て希望が戻ってきたような気がしたのである。総長、理事長、大学長級の面々が口をそろえ、新島の創設の精神であるキリスト教による人間形成が平和な世界を築く基礎となるとの信念を持ち、その息遣いが伝わってきたからである。特に最近の日本の教育行政には、権力追従型、経済追従的教育が目立つ。そこでは人間性を最も重要視する教育は皆無である(道徳教育は権力追従型人間教育とならざるを得ないから)。一個の人間としての人格形成、自由独立への精神教育は、新島の言うように、キリスト教(宗教)教育以外にはあり得ないのである。「チャペルは見える祈りの場」であり、わが追分教会も目に見える場所としての「祈りの家」としても、この地に立ち続けていくことの重要性を改めて心に留めさせられたのであった。特に礼拝前のロビーでの騒々しさには気をつけなくてはならないだろう。少なくとも礼拝開始30分前からは、静粛さを一番の売りにしたいと願うものである。ウイークデーも、いつでもだれでも自由に出入りして祈れるように開門しておきたいものである。

 

2020.2.2.

 

「宗教教育考」

Jingo Inagaki

 

 先週この欄で、新島襄の教育論の核を述べ、結論として「“宗教教育”しか人間を育てる道はない」と書いた。28日の衆院予算委員会で、国民民主党の前原委員は安倍総理に、教育の無償化を憲法改正案に盛れと迫っていた。経済格差が教育に大きな格差を産み出し、少子化が更に進むからとしていた。確かに少子化・教育格差対策を経済格差から論ずる主張は一理あると思う。ただし、私は「教育」というものは無償化すれば良いというものではないと思う。教育の中身も重要である。ではどうすれば国家が「宗教教育」を、憲法の政教分離原則を踏みにじらないで後押しできるだろうか。単純な思考能力しか持たない私であるが、かねがねから次の様に考えてきた。それは憲法19条、20条の規定する「信教の自由」権は、決して宗教を否定しているのではないのだから公教育においても、それぞれ個人の信仰を最大限に尊重し、奨励し、そのための時間を保証すればいいと。前原委員は、幼児教育から大学教育まで無償化し、それを憲法で明記すれば、安倍総理の名が歴史の中で輝くだろうと揶揄しながら求めていた。安倍首相は憲法明記には取り合っていなかったが、もし完全無償化が実現されれば、従来から皇国史観や軍国主義まるだしの安倍総理だから、国家統制教育が私立にも及ぶこと必至であろう。新島襄が、京都府から校内でキリスト教教育はするなとの要請があった中で、あえて大きく立派な礼拝堂を建てた事を、去年11月14日同志社創立記念礼拝の奨励で、同大キリスト教文化センター三木准教授が強調して話していた。私も神学生のとき、教職課程の講義「教育原理」で、教育原理の真髄が聖書の信仰にあることを叩き込まれた。名前は忘れたが京大から派遣された教育学者の講師から、教育原理の「核」はヨハネ福音書8章32節「真理はあなたたちを自由にする」と学んだ事だけは鮮明に刻み込まれている。この教育観を今のキリスト教主義学校でも貫いて欲しい。とはいえ現実に経済格差の壁は堅固である。だから教育費無償化は是非実現させて欲しいが、それ以上に、キリスト教主義学校と受益者(民衆)が一体となって、その存在意義を常に明確に表明し続けたい。各個教会との連携も欠かせない。

 教会として今一番切実に求めることは、日曜日に学校行事はしないで欲しいと思う。一般社会に向かっても教会が発信していかねばならないことではないだろうか。モーセの十戒の第四戒は「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。〜」である。これは教会の都合だけの話ではない。一般社会での「働き方改革」の問題でもあるのだ。宗教教育は宗教教団の問題にとどまらず、それ以上に社会全体のよりよき秩序と平和の問題に深く関わっていることを覚えたい。

 

2020.2.9「信教の自由を守る日考」

 

 2月11日は1966年に「建国記念日」として制定された国民の祝日であるが、この日はもともと1872年に紀元節とされた日である。紀元節は初代天皇とされている神話上の神武天皇が即位した時をもって定めたものであった。教団では1963年6月に反対声明を出し、制定後の1967年以降はこの日を「信教の自由を守る日」とし今日に至っている。私は日本の建国は、1945年5月3日、現在憲法記念日とされている日が最も相応しく、この日を建国記念日にすべきだと従来から考えている。それはさておき、この日を教団が「信教の自由を守る日」としたのには、以下のような背景があった。明治政府が創設した紀元節は、いわゆる皇国史観(天皇の支配)に基づくものであり、天皇は現人神と言われていた。敗戦により昭和天皇は人間宣言をしたのであるが、新憲法のもと象徴天皇制となっても、私事と言いながらも、神と共食をする「大嘗祭」の儀式が示すように、「皇室神道」という宗教と切っても切り離せない関係が続いていたこと。さらに当時は「靖国神社国家護持法案」問題が起こっていたこともあり、「信教の自由を守る日」とされたのである。わたしが兼任していた幼稚園や保育園では、この日は職員たちの研修の日として、各地で実施されていた2.11集会に参加するようにしてきた。北信分区社会部主催の2.11集会には是非多くの教友の方々の参加を願いたい。

 さて、憲法第19条20条に保障されている「信教の自由権」は

実はあらゆる「人権」の根幹にかかわる核となるものであることは論を待たないであろう。したがって、「信教の自由」は、特定の信仰者や特定の宗教教団だけでなく、あらゆる国民の人権にかかわるものであると周知されたいものである。最近日本は世界から、様々な分野で「人権後進国」であると厳しい目が注がれ、ほんとうに恥ずかしいと思う。新聞紙誌上にざっと目を通すだけでも、多くの非人道的出来事が掲載されている。人の目にふれないところでどれだけ人権が踏みにじられていることか! 人ごとでない。私自身を振り返って見ても、たとえばジェンダー差別問題における差別する側の要素が染みついていることを認めざるを得ない。「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」作成の政治家の2019年度ワースト発言投票ランキングに、1位:麻生太郎 2位:安倍晋三〜8位まで、名前とその発言内容が掲載されている、いつでもお見せします。もしお読みになってみて、これらの発言のどこがおかしいのかわからなかったら・・、ご自分も差別者の一人だということを知るバロメーターになるかも。

 

2020.2.16「分区2.11集会講演考」

 

 実家は富山の薬屋、周囲は仏教文化漬の環境で生まれ育った牧野信次牧師のお話は、タイトルの「信教の自由と象徴天皇」をご自身の生涯を通しての経験から語るという切り口であった。富山での幼い日の空襲体験から今にいたる彼の84年の生涯を、2時間たっぷりと語られたのだが、正直まとめようのない話であった。象徴天皇制についても真正面から切り込むといったものでなかったし、彼がどうそれを捉えているのかもよくわからなかった。では、期待はずれの残念な講演だったのかというと決してそうではなかったので、余計にまとめにくいのである。どちらかというとご自身のキリスト者としての生き方の証であったと思う。

(1)神との出会いの経験

たまたま大学で一人の寮友に学生集会に誘われ聖書・賛美歌を知り、出会いの輪が広がり、聖書の神と出会い入信。そのことを父に報告したらこっぴどく怒られ勘当されたが、自分が自分であることができたとの思いの方が強かったと。「わたしはある」という神に一対一で向かい合うことは自分が自分であることを知ることなのだと。

(2)「天皇」を巡って自分の「良心」が問われた経験

昭和天皇崩御時の自粛勧告の時、礼拝をすべきかどうかを問われ、礼拝はいつもの通り行うと決断。十戒の第一戒、第二戒、第三戒、つまり神の前での自分たちの生き様をきちんと果たせるかどうかが、象徴天皇制への対処の仕方にも問われると考え学ぶ。鶴川北教会では、2.11、5.3、8.15には必ず集会を持ち学び続けている。

(3)教団戦責告白を支えとしての牧会

1967年3月の教団総会において総会議長鈴木正久の名で発表された「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が彼の「信仰告白」と表裏一体となり、牧会者として出発(1967年3月神学校卒業)から引退し今に至るまでを支え貫いている。

 私の弱い頭でまとめるなら、この3点が印象的であった。信仰者として常に「キリスト」の前に立つのであれば、おのずと象徴天皇制への姿勢が整えられるのだと受け止められるのであった。

 それにしても、12日の「赤旗」以外の新聞には、コロナウイルスと野村監督の訃報の記事はあったが、「建国記念」行事、また「信教の自由を守る」集会等の報道が一切なかったのはどうしたことなのだろうか。狐に包まれたような気分はまだ続いている。

 

2020.2.23「パンの問題考」

 

 一番最近のユニセフの報告では、世界で8億2,100万人が飢餓状態で、それは世界の全人口の9人に1人に当たり、更に増え続けているとのことです。特にアジア、アフリカ、中南米に集中しているとのこと(2017年の推定)。一方世界の穀物の生産量は26億トンで、1人当たり340kg、 野菜や肉類を加えて平均すれば全世界の77億人が飢えることはない計算になります。これは大雑把な統計ですが、いつの時代も、どの民族でもパンの問題は政治の中心的な政策テーマなのですね。言い替えれば経済問題です。イエスは宣教活動に入る前に、荒れ野で誘惑を受けました。そこでの最初の誘惑は、イエスの飢えを満たすため、おまえが神の子なら石をパンになるよう命じてみろというものでした。そのようにパンの問題はこの地上に生きる人間にとって第一の問題であり、そのために人は額に汗して労働するように、天地創造時の失楽園の宿命として受けとめ続けてきたことが分かります。ちなみに日本の食料の自給率は37%で、63%は輸入だとの統計があります(2018年)。でも飽食は止みません。他の国々無しでは食べていけないのですが、そこで世界的に問題なるのは「経済格差」でしょう。最富裕層10%が最貧層10%の約9.6倍の所得という統計が「経済協力開発機構」(34ケ国加盟)の2014年の統計があります。世界規模でいうと、ここでいう最貧層よりまだ貧しい1日2米ドル層の人々が圧倒的に多いのです。パンの奪い合いは現在も進行中の紛争地帯に顕著です。資源の争奪戦は絶えず、そのために難民も増え続けています。現実問題として「パン」の問題は深刻なのです。イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と誘惑を退けていますが、決して肉のパンを軽視、否定しているのではないのです。なぜなら5千人、4千人の給食の奇跡があるではないでしょうか。国連のユニセフや個人的な中村哲氏のペシャワール会を始め数えきれない程世界には、この奇跡の業が繰り広げられています。日本でも、我が教会で購読している「THE BIG ISSUE」によると野宿者、ホームレス支援の輪の力強さが伝わってくる。私はそこに復活の主によるパンの奇跡があると信じています。この世の王(権力者)がいくらパンを獲得しても「神の言」が伴わないないなら、難民拒否があり、飢えが広がり、やがてはその権力は自滅崩壊する事は歴史が証明している事ですね。

 

2020.3.1「権力者の『嘘』考」

 

 古今東西の世界の政治家は、人民(国民)に「嘘」をついて自己の野望を遂げようとし、どこまで「嘘」をつき通すことが出来たかで、その力量が評価されてきたという社会的土壌があるのではないだろうか。「嘘」をつかれた国民も、後になってやはりそうだったのかと変に納得してしまう。それで平気な人たちはよいのかも知れない。しかし許せないのは、その「嘘に」よってどれだけの人が傷つけられ、殺され続けてきたかということだ。目下コロナウイルスの蔓延問題で毎日一日中この話題ばかりだが、最近分かってきた事は、中国で去年末にいち早く新型肺炎に警鐘を鳴らしていた李文亮医師が警察に処分されていたため、対応が遅れたという事実だ。11月下旬〜12月初め頃から感染が始まっていた可能性が大と、中国政府研究機関である「中国科学院シーサンパンナ熱帯植物園」が指摘したとの報道に接し(2/25)、 その情報を中国政府が隠していたとすると、死ななくてもよかった人がかなりいたということになる。日本におけるダイアモンド・プリンセス号への政府の対応についても世界的に疑問視されている。現在公式に発表されている感染患者数も、政治的にかなり抑えられているのではと疑わしく思ってしまう。高度に、また日々加速度的に発達している情報化時代である。このコロナウイルス情報を私たちはどう受け止めてきたのだろうか。今月20日付けで、厚労省から教団へ「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起」についてという文章が届き、教団議長はこれを受け26日付けで、各教区から各教会へ7つの注意項目が挙げられた指示文章を配布した。これはもう単なる注意喚起の段階ではなく、政府の失政故ののっぴきならない事態が迫っているのかも?またこの機に緊急事態条項を憲法にと画策してのことか?などといろいろと勘ぐってしまうのであった。ところが、27日には安倍首相の唐突な全国一斉に小中高学校への臨時休校要請だ。本当は何か分かっても、知ろうともしなかっただけなのか。それでなくとも「嘘」と「誤魔化し」に明け暮れている政府である。ちゃんと説明をしないことも「嘘」と「誤魔化し」と一緒だ。その陰でどれだけの人々の人権や生命が侵されているのだろうか。マタイは言う「〜口から出てくるものが人を汚すのである」(マタイ15:11)と。コロナウイルスは口から入り、また口から出て人を汚している。マスク嫌いの私だが、つとめてマスクをしようと思わされた次第である。

 

2020.3.8「コロナウイルス考」

 

 新型コロナ・ウイルス旋風が吹き荒れている。確かにこの新型ウイルスの脅威は分かった。中国(米国説?)から始まり世界中に蔓延し始めている。日本でもクルーズ船から始まり、北海道など数値的にも広がっている。全国的に不安が広がり、予防策にあくせくする日々も頷ける。しかし毎日毎日一日中繰り返し繰り返し垂れ流される情報に振り回されている自分自身に気付きあほらしくもなるのであった。よくよく情報をちゃんと読み解けば、長野県で初の感染者とその妻が感染したことは報道されていたが、2日には最初の感染者との濃厚接触者のうち、発熱はしていないが鼻水や咳などの症状がある者の検査をするとの報道があったくらいで、パニックが起きるような状況ではない。学校の閉鎖も全国一律に今何故? 首相の説明には根拠なしとの報道。マスコミの微に入り細にいる予防策指導などもヘキエキする。用心に越したことはないのだろうが、一方これほどまでに日常生活や社会活動が制限されていいのだろうかとの疑念も深まる。教会にも先週教団議長名の予防策の通達が届いた。それに忠実に従うならば教会活動も一律にかなり制限されてしまうのであり、そもそもそんな通達が何故必要なのかと思う。本当のことが知らされていない、分かっていない、憶測だけが先行してしまう。そのような不安に支配されると、「大本営発表」を無条件に信じ従ってしまう! そんな流れに二度と巻き込まれたくない私は、今の教団指導部もこれ幸いと上位下達の支配体制強化への便乗ではないかとの疑念を持ってしまう。安倍政権では「非常事態宣言」法整備云々との声もあるが、もう十分非常事態としての「閉校宣言」であったのではないのか。これ以上民主的手続きなしの権力者の独断先行の実績を積ませてはならないと思う。衆議院予算審議で野党から、新型ウイルス対策のための予算措置をとの要求をも拒否して予算を強行成立させた政府与党である。そんな安倍首相の独断になびいている輩に私は驚き怒りすら感じるのだ。一方根も葉もないデマ情報でのトイレットペーパー等々買い占めラッシュは、無条件に大本営発表になびいてしまう群集心理が顕在化したように思えるのだが、島根県教委が、学校で感染者が出たら閉校を考えるとの報道には何かほっとしたものを感じたのである。せめてこの位の主体性は冷静に保ちたいものである。

 

2020.3.15「コロナウイルス考」

 

 先週聖日の夜9時〜11時までN響第1927回定期公演をEテレで聴いた。指揮者がバッハ・コレギウム・ジャパンの、我が教会にもゆかりの深い鈴木優人さんであったからだ。最後の演奏曲はメンデルスゾーンの「宗教改革」を優人さんが初版をN響用に編曲したもので、実に素晴らしい演奏で鳥肌がたつほど感動した。私たちプロテスタントにとって「宗教改革」は、まさにその信仰の原点であることは言うまでもない。先聖日の宣教でも話したが、ルターの教会への95ケ条の提題の中心的なものは「免罪符」への批判であった。「免罪符」とはローマ・カトリック教会が罪の償いが免除されるとして発行した証書で、15世紀末には教会の財政をまかなうために大量に発行されていた。また、当時世界中を覆ったペストによる民族の存亡の危機の前で絶望の淵に立ち慄いていた人々へ、慰めと希望を与えるための天国への片道切符とされていたとも言われている。中世のペスト禍とは比べられないかも知れないが、現在の新型ウイルスによる肺炎禍で、世界中の国々やその社会が同時に震撼されズタズタにされていくような状況は、単に一過性の災難というより、ここ数年来世界中を襲っている数々の大規模な自然災害(それも人災と一体化した)を加味して捉えるならば、中世の「宗教改革」が古い時代という殻を打ち破り新しい新天地を求める旅立ちをしたような方向性を、産み出し目指せる絶好の時でないかと夢想するのであった。今年6月私はドイツのオーバーアマガウの十年に一度の受難劇観劇ツアーに参加する予定だ。この受難劇は、ルターの宗教改革から約100年後に起こった30年戦争(1618〜1648年、ヨーロッパ中を巻き込んだプロテスタントとカトリック教会の宗教戦争)の頃、ペストで亡くなった多くの村人を追悼するために1634年の聖霊降臨日から始まったとのこと。 受難劇は宗教改革の果実でもある新しい「主権国家体制」確立への基礎となった記念でもあるのだ。今の世界も今までの国際秩序の殻から脱却して、新しい秩序(新天地)への方向転換を迫るうめきが湧き上がってきているのではないだろうか。そのうめき声には、必ずそこに耳を傾け、寄り添い、癒しとパンの給食の奇跡を行い続けている主の姿があることを忘れてはいけない。

 

2020.3.22「コロナウイルス考2」

 

〈コロナ君の独白〉

 僕、確か去年の夏頃どこかで産まれて、9月頃から中国の武漢で活動を始めて、そこから世界中に伝播したんだ。コロナ(王冠)なんて立派な名前までつけてもらって、今ではすっかり世界中の人気者ならよかったんだけど、嫌われ者、忍びの刺客のように恐れられてる。なんで僕はそんな殺人鬼のような生き物としてこの世に産まれてきたんだろう? 確か武漢では隠れキリシタンのような人々が信じている聖書の神様は、天地の創造主といってこの世の生ける者すべてを創られ、良しとされたと言ってたけど、こんな僕も同じ神さまが造ってくれたのだよね。それならどうして神さまが特別にご自身の息を吹き入れて生かした人間さんを病気にしたり、殺してしまう僕なんかを創られたのかな? だれか教えてよ! コロナなんて名前までつけてくれたのに、僕をこんなに憎んで撲滅しようとしてる。イエス様と比べるわけじゃないけど、まるで十字架に追いやられるようで怖いんだよ。そうそう先週テレビの「そうだったのか“新型”コロナウイルス」という番組で、池上彰っていう物知りのおじさんに教えてもらったんだけど、僕の先祖はこの地球上で人間さんの歴史と一緒に生き続けてきたんだって! 僕みたいな凶悪犯でも死刑にしたらそれで万々歳とはいかないんだって。だからそろそろ人間さんは逃げ回ることに必死になるんじゃなくて、共存の道を探ったらという趣旨のことをちらっと言っていたよ。良いこと言ってくれる人もいて僕安心したよ。これも中国の人たちから聞いたんだけど、イエス様って、自分を裏切ったり、憎んで殺した人たちが、お父さんの神様に罰せられないように頼んで自分から十字架の死を受け入れたんだってね! 僕もその救いのうちに入っているのかな? その神様は、僕みたいなウイルス族だけじゃなく、僕と同じような暴れ者の地震や台風なんかも、地球上の自然界の全てをご自分の目的達成のために支配下に置いているんだってね。それなら僕もその神様の目的達成のために造られたってこと? 訳が分かんなくなってきたよ! 何か吐きそうだよ〜。でも、人間さんたちだって、役に立つ、役にたたないとかで人を選別して排除したり殺したりしてるよね? 自分たちが生き延びるために戦争して僕より沢山の人々を今でも殺し続けているんじゃないの? 自己中のために、美しい自然界を、その生態系を破壊し尽くしたから、僕みたいなのが産まれたという話も聞いたけど、どうなの? 神さまがなんで僕たちを生かしてこんなことを許しているのか、ちょっと冷静になってみんなで一緒に考えてみようよ!

 

2020.3.29「艶かしいマリア」

 

 先週聖日の宣教テキストはヨハネ福音書の「ナルドの香油」物語であった。マルコとマタイでは受難週の第3日目の出来事だが、ヨハネではエルサレム入城前である。登場人物、香油を注いだ場所(頭、足)、香油ではなく涙などとそれぞれの話に違いもある。ヨハネではマルタ、マリア、ラザロの兄弟姉妹の家となっていて、次女マリアにフォーカスが置かれている。現在、世界が滅ぼされるかもしれないという説まで出始めた程コロナウイルス禍に見舞われていることもあり、受難節の今、ヨハネのメッセージを敢えてここに記しておく。

 マリアが高価な香油をイエスの足に塗り自らの髪でぬぐったことを、ヨハネはユダに激しく非難させている。それは、イエスの十字架の死への関連性を強調してのことだろう。そのユダに対してイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。」と、マリアの恥も外聞もない行為をイエス自身も受け入れ、ユダにも受け入れるようにと促している(ヨハネ福音書12:1〜8)。

 今の日本の女性差別社会もそうなのだが、イエスの当時も圧倒的な男性社会で、女性や子どもは数に加えられず、女性が男性の前に自らをさらけ出すことはご法度であったはずだ。イエスへの気持ちをストレートに弟子集団の前で顕したマリアの行為は、当時の社会では許されざるものであったであろう。しかしイエスは「十字架での葬りのために取っておいたのだからこの人のするままにしておきなさい」と肯定している。ここで「葬りのために」というのは、イエスへの彼女の深い想いによって、今までのがんじがらめの被差別状態から解放され、自分自身らしく生き得ることを意味しているのではないだろうか。イエスの使命が人々の罪からの解放であるなら、それは「自分自身」として生き得ることにほかならないのだ。もし、人がどのようなジェンダーであろうとも、「自分自身」として生き得ているなら、神の子の降誕と十字架への道は必要なくなるということだと思う。そういう意味で「葬りのために」というマリアの生き方は、全人生をイエスに献げるためのものとして自分をさらけ出したのであり、その結果マリアは被差別のこの世の殻を打ち破り、神に創られた「自分自身」に生きる道が拓けたということだろう。

 現在コロナウイルスの脅威と恐怖、不安の中に置かれて2ヶ月? ようやくオリンピックどころではないことが分かり始め、その恐ろしさに右往左往している。イエスが「十字架への恐れ」(ヨハネ12:27)から「十字架への道」を自らの選びとし、逮捕に来た者の問いに「わたしである」と堂々と名乗りを挙げられて身を預けられ時、逮捕者たちはその主の威厳に圧倒されて「彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハネ18:6)とある。この私を「自分らしく」いかすために「死」をも厭わず差し出して下さっている主イエスに、全存在を投げ出すマリアの生き方を見つめ直して、コロナウイルス禍によって自分自身を見失わないようにしてこの受難節を歩みたいものである。