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天声JINGO アーカイブ

2019年度4月〜

2019.4.7「新しい時代の幕開けか?」

 

1日に新元号「令和」との政府発表があった。当日は、細谷百合子姉の死去によりテレビのニュースを見る間もなかったのだが、それも一段落したところで、インターネット上で「令和」を検索したところ、これを歓迎する意見表明が湧き出るように次から次へと寄せられていて驚いた。中には批判するものもあったが、その時点ではほんの2〜3だった。私は元号反対論者だから「令和」云々の議論など興味はないのだが、気になるのは現安倍政権の政権延命のための新元号利用姿勢である。それはとりもなおさず、「天皇制」という「権威」を錦の御旗にしてきた歴史上の権力者たちの手法と同じだと感じるからだ。いくら民衆主義と平和主義の現憲法下の「象徴天皇制」といえども、第1章は「天皇」条項から始めているのである。第1条では象徴天皇の地位は主権者である国民の総意に基づくというような良く分からない言い回しである。昭仁さんが最後まで悩んだ「地位」なのだ。第2条には皇位は世襲で、皇室典範の定めにより継承するとある。皇室典範そのものが、いくら国会で議決したといえども、その内容は憲法が規定している民主主義や各種人権規定と矛盾するばかりではないか。要するに「象徴天皇」とはベールに包まれた謎の存在とされているのだ。かつて「ヤスクニの鬼」とまでいわれた、反ヤスクニの闘士故戸村政博牧師は、ヤスクニとの戦いの相手は「鵺(ぬえ)」のようなものだと言われていたことを思い出した。ヤスクニ神社の国家護持法案への反対運動は、三度廃案に追い込んだものの、その法案の本質は「天皇制」そのものであった。「鵺」とはつかみどころのない妖怪で、平安時代には天皇を悩ました「妖怪」伝説があるほど強力な魔性をもった呪縛みたいなものだ。安倍首相は「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味で、次代を担う若者が明日への希望に満ち溢れる日本を築きたい」と言っているとのことだ。突出した軍事費、福祉切り捨て予算を見ても明らかなように、明日に希望など持てる時代の幕開けなど到底期待できない。「鵺」を利用しているだけではないか。我々キリスト教徒は、すでに新しい時代に生かされ続けていることを強調して、力強く宣教していかねばならないと心引きしまる思いであった。

 

2019.4.14「暗澹(あんたん)」

 

この「暗澹」は、私にある方が「令和」という元号の虚ろさを覚えて送ってくれた言葉で、今の時代のありのままの姿を言い当てた妙なる命名であると思った。

その意味は、�薄暗く凄みを感じさせる様。�見通しが悪く、将来に希望が見えず不安な感じ。安倍政権の嘘とごまかし、民意無視、数の論理で全てを押し通す政治状況、湯水のごとく軍事費を注ぎ込み、福祉を切り捨て、労働者を奴隷化する等々の政治的状況のみならず、7日の統一県議選でも見られたように、政権党が勢力を温存した裏には、弱き人民の「清き一票」も、寄らば大樹の陰といった傾向が浮き彫りになった。そのような事も含めて「暗澹」時代の幕開け、というより、鮮明にされ始めた時代描写だと思うのである。

 9日の軽井沢9条の会例会では、天皇制についての勉強と意見交換がなされた。私は、現憲法下の「象徴天皇制」であっても、天皇の神的性格は温存されているという観点からは、民主主義とは相容れず、天皇が社会全体を絡め取ってしまうと考える。そして大嘗祭が象徴しているように、天皇は神的権威として機能しているから、一宗教者として天皇制そのものを否定する立場を表明したのである。

 一方、聖書では世の初めから、この世は「混沌」としていて、闇が覆っている世界に「光あれ」と歴史の神が言葉かけをしているところから始まっている。またノアの洪水も絶望と死の世界からの救い、バベルの塔崩壊、その後も出エジプト、バビロン捕囚、エルサレム陥落と滅亡と、イスラエルの民は「暗澹」を潜り抜けてきたのである。

 本日からキリスト教では・イエス・キリストの受難週入り。主のご受難も「暗澹」な時代とその社会との対峙における姿である。深い闇の世界に向かって「光あれ」との、ハイドンの天地創造第一部序曲に続く1番の最後に響き渡る神の言葉は、あの主イエス・キリストの「十字架」に響き渡っているのではないだろうか。「暗澹」たる時代とその社会であればあるほど、あらゆるこの世の苦難を一身に負い、死をも担い切った主イエス・キリストという「光」を眩いばかりに反射していく主の教会の出番が来たと歓迎せねばならない。そして「暗澹」たる時代へ漕ぎだしたい。

 

2019.4.24「なんとすばらしい石、建物!」

 

イースターおめでとう。主の平和がありますように。

今朝(16日)の朝目覚めてすぐのテレビのニュースで目に飛び込んできたのが「ノートルダム大聖堂炎上」の映像だった。見るも無残に焼け落ちる尖塔に、何故かバベルの塔崩壊のイメージが私の脳裏をかすめた。同時に45年前の春、私の初めての海外旅行である聖地ツアーの帰り道で、パリに寄って同聖堂を見物した時を想い出した。そしてその時に魅了されたステンドグラスがどうなったのかと心配になった。激しく炎上する実況放送を追いながら、今は丁度受難週入りしたばかり、14日の聖日は、エルサレムの神殿を見上げて「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と感激した弟子たちに主は「こられの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩れずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:1〜2)と神殿崩壊の予告をしたばかりだっただけに、その主の予告とこのノートルダム大聖堂の崩壊が重なってしまうのであった。そしてパリっ子たちのアベマリアに込める祈りの動画を見るにつけ、彼らの祈りには受難週の主の言動がどのように響いているのかが気になりだした。大聖堂はフランスのカトリック教会の総本山で、主の受難にまつわる様々な秘蔵のグッズもあり、聖堂全体が世界遺産ともなっている。この受難週にちなんだ行事も目白押しではなかったかと思う。日本の3.11への追悼ミサもなされていたとのことだ。主の当時のエルサレム神殿でも、真剣にメシアの到来を待ち望み、解放と世界平和への祈りが捧げられていたに違いないのだ。それにも拘らず主は神殿崩壊を断言したのは何故か。神殿が本来の使命をおろそかにしていたからに違いないのだ。仏国ではすでに今以上の壮大で美しい聖堂の建て直し、そのための募金の話まで出ている。主が十字架の死を遂げて、三日目に蘇ったという「新しい神殿のたて直し」をされたことへの想像力が伴うのかどうか。たとえば、シリアの果てしない内戦による、歴史遺産の徹底的な破壊、人々の殺戮、増え続けるさ迷う難民を切り捨てたままでいいのか? 今回の炎上は十字架と復活の主への弟子としてその道行に伴おうとしているのかどうか、全世界の教会への大きな警鐘として聴かねばならないのではと思うのであった。(16日記)

 

2019.5.5「あいまいな主権の時代」

 

超大型連休(4/27〜5/6)には、明仁さん美智子さんの天皇・皇后退位と新天皇に徳仁さん・新皇后に雅子さんが就任する儀式の日がそれぞれ休日とされたことが影響していた。この間テレビなどのマスコミ各社は平成(1989〜2019)を天皇の時代として、彼らの30年間(一生も含めて)を微に入り細に入り映像とコメントを垂れ流し続けていた。明仁さんは、裕仁さんが神になったり、人になったり、前半は「主権者」としての天皇であったのに対して、わかったようでわからない「象徴天皇」として、国の内外を問わず戦争被害者の慰霊の旅、大災害の被災者、被災地への慰問などを精力的になし「世界平和と国民の幸せ」を願う天皇となった。それを褒め称えるものであったが、「平成」という時代をこの天皇の言葉や行状をもって、「世界平和」と「国民を思いやる」時代として括ることへの欺瞞性溢れる茶番劇であったとしか私は受け止められなかった。新天皇徳仁さんは「憲法にのっとり責務を果たす」と就任の辞で述べている。しかし、特に今の安倍政権下において、「平和憲法」といわれているものの主たる精神である「立憲主義、主権在民、民衆主主義、人権主義、等々」が踏みにじられてきていることは論をまたない現実であろう。そもそも憲法第1章に規定されている天皇条項については、�皇室範典という民主主義や人権主義とは相入れない多くの規範による縛りあり、�内閣の助言によると言って、象徴天皇の内実は時の政権の権威付けのためのイエスマンでしかないのだ。そうだとすると「平和憲法」と「象徴天皇制」は、対立概念が混在する実に「あいまいな」鵺(ぬえ)のようなものといわざるを得ないのだ。「令和」になっても、その継続であり何も変わらないだろう。真の「民主主義国家」となっていくためには、現代の「民主主義」が米国に移住した会衆派(ピューリタニズム)が確立して全世界に広がった歴史を学び直さねばならないだろう。そのために私たちキリストの教会の果たす使命は大きいことを自覚したい。

 

2019.5.12「主権は何処に考�」

 

「神の国」の主権者はいうまでもなく神ご自身である。主権者の最大の役目は、その国の国民を養うことでありましょう。ヨハネ福音書6:35では、主ご自身が「命のパン」であることを述べ、主のもとに来るものは「決して飢えたり渇いたりしない」と断言しているように、「神の国」の主権者は自分自身を惜しみなく民に与える姿をお示しになっています。しかも私たち神の国の住民すべては、全体としてではなく「個」として尊重されているのであります。どんなに貧しく小さい存在でもです。私はここに「基本的人権」の根拠があると信じています。我が国憲法の人権条項に謳われている通りです。聖書では更に、主イエスからいただいた「命のパン」を今度は他者に向かって惜しみなくわけ与えるよう押し出されるのが、主のもとに集められた者たちの共同体(教会)の姿であり、同時に現在世界中に受け入れられている「民主主義社会」の原点、屋台骨であると教えていると私は信じています。「民主主義」も絶対ではありませんが、私は私を産み出し育ててくれ、こよなく愛している我が国が、もっともっとすばらしい民主主義国家として成長して欲しいと祈るものです。それにしても我が国の内情を見るにつけ、国としての主権はどこにあるのだろうかと思わされるようなことばかりが目につきます。例えばいわゆる日米安保条約における地位協定の問題は大問題でしょう。沖縄県の元知事翁長さんは「憲法の上に日米地位協定があり、国会の上に日米合同委員会がある」と述べられました。欧州などでは駐留米軍に対してみな国内法が適用されているのに日本だけは適用されていません。沖縄のみならず全国で米軍の出入りは自由、重大な事件や事故に対しても捜査権が一切ないのはどうしてなのか。まるで主権が剥奪された奴隷のような扱いではないでしょうか。安倍政権になってからそのような面がどんどん深化していくようで危惧しています。これでは「民衆主義」の深化とは真逆な道へと速度を増して突き進む、「令和」の時代の幕開になるのではないでしょうか。

 

2019.5.19「主権は何処に考�」

 

私の手元に私が子供の頃の10円札が数枚残されている(1946年発行1955年発行停止1952年10円硬貨発行時に製造停止)。表に国会議事堂、裏面は彩紋というデザインだが、表の十圓のデザインの十はどう見ても米で、圓の方は周囲が鎖で中に「日本銀行」「菊の紋」「圓拾」が囲われています。終戦直後のGHQというより、米国の支配下に拘束されているという屈辱的な姿が示されています。1946年11月3日には新憲法が公布されましたが、このお札は1955年まで発行され続けました。勿論「主権」も形だけでしょう。1960年、圧倒的な国民の安保反対運動が巻き起こり、教会も挙げて反対デモに明け暮れたことを思い出します。しかし「日米安全保障条約」は強行採決され締結されました。それ以降今に至るまで日本の米国追随姿勢は続いています。今の安倍政権になってそのことはあからさまになり始めました。特に沖縄の軍基拡大強化と我が国の際限のない援助が、ますます沖縄県民の自治権を強権により押さえ込んでいるという現実を如実に物語っています。この世の権力争いには追従も妥協もある程度は必要かもしれませんが、そのことが、国民ひとり一人一人の人権を踏みにじるなら本末転倒も甚だしいということになります。私には沖縄県民だけでなく今の日本の市井の全ての人々は、旧約聖書のヘブル民族のエジプトでの奴隷や、米国の黒人奴隷制度時代とかわらないのではないかとさえ思えるのです。この世のいかなる「主権」であっても、天の国の「主権」である神のもとで、この世の「主権」を委ねられているということを前提としないと、委ねられた人々を養い富ませることはできないのではないでしょうか。全世界の「主権者」である主なる神を教会は指し示すべく遣わされているのです。

 

2019.5.26「ぶどうの枝として」

 

 先週私は、かつて奉職した緑野教会創立130年記念式典でのメッセージを頼まれ、木村登茂江姉と共に招かれた。木村登茂江姉の亡き夫木村従郎牧師の父上、故木村平蔵牧師が14代目として奉職されている。彼は戦前戦中戦後の22年間、迫害と窮乏の激動時代を牧会された。彼の牧会の姿勢には主の教会の真髄が象徴されているように思える。彼は農繁期には農民の子たちの託児所を開設し、乞食や孤独な人々を教会に招き入れ世話をしただけでなく、反戦平和の姿勢を貫いた人でもあった。また苦労をして資金を集め、前の会堂(保育園舎としても使用されていた)の建築をもなしている。私がそこに主の教会の真髄があると言ったのは、130年前の設立時もそうであったが、特に平蔵牧師の時代を乗り越え、よくぞ永らえたものだという感慨に満たされたからだ。この世的常識や価値観からはとっくに消え去っていてもおかしくないからである。私は今回のために私の次代の川上牧師の時に編纂された「緑野教会百年の歩み」を読み直してそのことを強く感じさせられたのだ。そして逆に、今日の私たちは、迫害や困窮の時代とはちがう平和で自由な時代であるのに教会は何をしているのか、牧師は何をのんびりしているのかと平蔵牧師に天国から叱られているように思えたのだ。敗戦直後、空前の教会ブームで猫も杓子も集まったことを思うと、教会の発展や衰退は決して人間の熱心、努力ではなくて、神の御業にどれだけ委ねているかとう信仰があぶり出されるのだと知ったのである。私たちの熱心さや努力は必要だが、その根底にどれだけ主に委ねているかが肝心なのである。130年を生かされてきた教会は、ぶどうの幹である主イエスに繋がれてきた枝としての牧師、信徒、地域の人々であったのだ。その枝の長短や太さ細さの差がどれ程であっても、幹である主イエスから脈々と注がれてきた滋養分によって生かされて続けてきた130年であったことかを参集した一同確認して、感謝と喜びに満たされた式典であった。

 

2019.6.2「分区サンデーの恵み」

 

 6月の最後の日曜日は「分区サンデー」とし、教会間の交流の時としている。牧師と信徒数名が共に訪れるのが伝統だ。今回私は先週28日の火曜日に実施した。当教会からは梶浦姉が同行された。彼女の車に乗せてもらい楽ちんであった。今回は通常の交換講壇とは違って教会同士の交換ではなく、長野駅近くの信州教会隣りの愛和病院の礼拝に当てられた。愛和病院はターミナルケアーのホスピスで、不治の病の方の最後の治療と緩和の場である。松村さおり牧師がチャップレンを務められている。私はだいぶ以前に山崎正幸牧師がチャップレンの時に一度礼拝に招かれたことがあるが、やはり今回も緊張した。なぜ今回前倒しの実施となったか。実は28日〜29日は東海教区総会が静岡市で開催され、さおり牧師は、私がだいぶ前から教区とは距離を置き今回も欠席する事を知っておられ、ご自分が教区総会に出席されるので28日の礼拝に穴が空くため私をその日に招かれたのだった。この日はボランティアとして加藤隆弘夫妻もこられていて礼拝の司会をされた。奏楽は信濃村教会の信徒飯田姉、他にボランティアが2名、患者2名と付き添いの看護師が1名の計9名であった。時間は30分と制限されていた。あらかじめ宣教要旨1,000字の提出が求められ、当日のプログラムに印刷されていたので気が楽であった。宣教は創世記の人間創造がテーマで、赤ちゃんを産む母親のように、神は人間のためにあらゆるものを創造し準備されたこと、ご自分の命を与えた人間をどこまでも追い求めて止まない愛の方であるというところに焦点を当てて語った。出席された患者の一人で通院患者の女性が、礼拝が終わってから来られて、娘がもうすぐ出産するので、今日の話はわかりやすく感動した。帰ったらすぐに話すと言って喜んでおられた。続くお茶の会のダベリングにはなんと9名の患者さんが集まって来られた。このチャペルの雰囲気と茶菓子とダベリングが良いらしい。ここにも私は主の聖餐の喜びの歌声が響き渡っていたように思えて楽しかった。そんな恵みを語りあいながら帰途についたのであった。

 

 

2019.6.9「小教会の底力」

 

先週は3日間(当初予定では4日間)のお休みをいただいて、倉敷市在住の故彩子の姉頌子さんの家を訪ねた。彼女の連れ合いの射矢諄一さんの描いた42号の絵を貰うためだ。1981年にカナダで見つかったアンモライト(アンモナイト)と名付けられた、玉虫色に輝く宝石のような化石の絵だ。ロビーに展示しておくので御一見あれ。去年2月に亡くなった私の恩師でもある田井中純作牧師の記念会が同年6月に倉敷教会で開催された時に立ち寄り拝見して、貰う約束をしていたものだ。今回は、息子の真実(吾妻教会牧師)が休暇をとれるとのことで、一緒に私の車で行った。1日目10日(月)の夜は琴浦教会員高岩順子姉の営む、教会のすぐ近くにある「野の花」という喫茶店(お年寄りの憩いの家)の二階に泊めてもらった。その晩は私が琴浦教会にいた頃(1972〜1979)からの教会員4組のご夫妻と、一人の女性の9人が集い会食をし、旧交を温めることができた。今月2日〜3日に開催された東日本同信伝道会研修会での講師が、2日目の討論の場で、琴浦教会は、牧師にとって「癒しの教会」であると評していた。確かに奉職した歴代の牧師たちにとってそうであったのだと改めて思わされたばかりであったが、私にとっても、初めての主任牧師の教会であり、そこで結婚をし、3人半の子どもたちもそこで与えられた。10年1日の如し、いや50年1日の如しだ。80才代になった当時と同じ顔ぶれが、私が去ってからでも47年間、そのまま雁首そろえてワーワー賑やかにやっているのだから、他の教会には見られないほんとうに驚きの教会である。牧師は羊の世話をするプロであると言われているが、実はこの教会では私とその家族が羊として養われたのである。いつ迄たっても会員23名で年間予算500万円の、明日はどうなるか分からない田舎の小教会であるが、この教会に今の私たちの追分教会も日々励まされ支えられている現実に気づかされ、ただただ感謝の一言あるのみであった。

 

2019.6.16「天の国を激しく襲うもの」

 

いかなる人であっても、神の無限かつ無条件の愛の対象であると、イエス・キリストは彼の言葉と実践によって示し、そのことを新約聖書は2,000年間語り続けている。我が日本国憲法は「人権の尊重」を基本とし、人権を損ねるいかなる暴力も否定し、世界平和を希求し、具体的に軍隊を持たないことを明記し、国民一人一人の「個」を尊重し、一連の「自由権」を明記している。私はこの憲法は、その制定過程がいかなるものであったとしても、「象徴天皇制」を除けば聖書の平和的メッセージが充分に反映されていると評価する者の一人である。先週の聖書を学ぶ会では、マタイ11章2〜19の「洗礼者ヨハネとイエス」とタイトル付けられた場面、イエスによる全く新しい時代の幕開けがテーマの部分を学んだ。12節は「彼(ヨハネ)が活動し始めたときから今に到るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」との、ちょっと難解なイエスの言葉であった。今の世界や日本の政治的状況を見ると軍事力増強に湯水のごとく税金をつぎ込み、その結果「個」が軽んじられ、最も弱く貧しい人々が切り捨てられていく状況が加速しているように思える。現政権が忠誠を尽くしている大国の大統領の信条である自国第一主義は、他の先進国にも蔓延し始め、難民排除など非人道的政策などが目立ってきている。政治の世界だけではない、私たち日常生活の足元でも、親が子を、子が親を痛め、殺すような事件が相次いでいる。または見知らぬ人々をいきなり傷つけたり死に至らしめたりする事件があとを絶たない。労働者が使い捨てられるような状態が許されたりしている。こんな状態のことを、イエスは「天の国が激しく襲われている」と言って嘆いているのかも知れないと考えさせられた。でもイエスは最後に「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と結んでいる。傍観者的評論家であるより、神の知恵そのものであるキリストと共に働く私たちでありたいと願い心を引き締めたい。

 

2019.6.30「平和を実現する人は、幸いである」

 

これはマタイによる福音書5章のイエスの山上の説教の9節の言葉である。

昨日の軽井沢9条の会設立14周年記念講演会の講師、国際問題ジャーナリスト伊藤千尋氏の著書『9条を生かす日本—15%が社会を帰る』が去年5月3日に出版された。今回の講演もその著書で述べられたことを踏まえたお話であった。主イエスの平和への言及がオバーラップされて聞こえたのである。その本の「はじめに」から一部を引用してみよう。「日本の平和憲法の前文と9条に謳われている平和主義のもと敗戦後70年以上にわたって今日の繁栄を得てきたばかりでなく、世界の平和を願う国々の希望として機能してきたが、それが今安倍政権の『積極的平和主義=先制攻撃という武力による平和(proactive contribution to peace)』によって踏みにじられているとの認識のもと、現憲法を守るという姿勢だけでなく、国民、民衆の積極的な平和を創りだす平和、つまり「積極的平和(positive peace)」でなければならない。“平和は創造”するものだ」と言い切られている。まさにイエス説教そのものではないだろうか。次に伊藤氏が提唱していることは、小さいことであっても平和を創り出していく努力をし続けることの重要性だが、それを担うのは他でもない、国民・市民一人一人なのだということである。「そもそもの概念では、市民(citizen)は生まれながらにして市民なのではない。その社会の自立した構成員となり、共同体の政治的な主体として自覚した人を言う。ただの国民ではなく、真の市民社会の主体として自覚した人言う。」と言っている。「個」の尊重は、聖書では罪人として切り捨てられた人々に寄り添い癒した主イエスの言葉と行為によって示された福音の核であることは言うまでもない。講演のDVDや彼の著書の何冊かを私が所蔵しているので希望者は是非鑑賞、ないしは読まれることを勧めるものである。

 

 

2019.7.7「御言葉を食べる」

 

私は2013年7月に、たまたまひどい風邪かなにかで医者の診療を受けた時に糖尿病が発覚した。それ以来薬を数種飲み続けているがなかなかな治癒しないものである。それどころか炭水化物の取り過ぎや、薬を切らすと、三ヶ月ごとの検査でたちまち血糖値上昇で主治医にお叱りを受ける。イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言っているが、人間の心の健康を保つためには、御言葉を薬として聴くことであるとするなら、毎日規則正しく聴き続けることが肝要であろう。それは毎日の食事と同じだと思う。どちらも「くいあらため」の毎日なのだ。そうすればいつの間にか血となり肉となって健康が保たれるだろう。現代は美と健康に関するサプリメント全盛時代であり、御言葉のサプリメントがあればどんなに大儲けできることだろうかと思うが、そうはいくまい。医者は炭水化物はできるだけ避けるようにとか、お米も100グラムまでとか、なんでも腹八分目にせよと言うが、いちいち気にして食事などしていられないのが常である。美味しいものはついつい食べすぎるし、腹八分目のつもりでも、いつのまにか腹一杯になってしまう。だからなかなか治らないのだ。聖書の読み方でも同じような読み方しているのではないだろうか。美味しいからといって腹一杯これでもかこれでもかと詰め込むような読み方、美味しいところだけつまみ食いするような読み方、これは栄養になると勝手に思いこんでそこだけを食べるが、実は全く逆効果でしかないような読み方ではないか。あるいは気が付いてみたら全く飲むのを忘れていた、あるいは意識的に避けるような読み方などをしてはいないだろうか。「平和を実現する人々は幸いである」と題して、先週この欄で憲法についてどんなに素晴らしい理想を掲げていても、私たち一人一人の日々の努力が大切だという事を書いたが、この平和憲法を取り入れる国々が世界にはかなりあるという9条の会講演会の講師伊藤千尋氏の話に勇気付けられた。このことは次週に語らせていただこう。

 

2019.7.21「最も小さい者を」

 

今参院選の真只中だ。ここ数日間世間では、政党や市井の下馬票合戦が報じられてきた。人々は何を基準に候補者や政党を選ぶのだろうか。私の投票の基準は昔から変わっていない。私の基準は「人権尊重」である。それは誰も否定はしないだろう。私の言う人権は、富裕層の人権ではない、中産階級の人権でもない、貧乏人の人権でもない、この社会の中で最も小さくされた人々の人権のことだ。主イエスの立ち位置そのものでもあるからだ。最も小さくされた人々とは、あまりにも小さいが故に社会の中からは覆い隠されている場合が多い。だから存在そのものが無視されている。そのような人々の「人権」である。そこまで徹底した政策を打ちだす政治家や政党はない。しかしその方向に目を向けた政策はある。具体的に言うと、現憲法の精神にのっとった政策である。憲法の条項で、最も「人権尊重」を具体的に規定しているのは、いうまでもなく第二章第9条の「戦争の放棄」と「軍隊不保持」条項である。そこには、第三章の国民の権利及び義務条項の要となっている第13条「すべて国民は、個人として〜最大の尊重を必要とする。」という規定であり、そこを見据えた政策だ。しかし、現実には個人として尊重されていない人々がどれだけいることか。それどころか、一般人でも明らかに人権が犯される社会現象、たとえば残業残業での過労死や、非正規雇用の蔓延、いじめ社会の蔓延等々挙げたらきりがない。現政権党が現憲法の「人権尊重」を無視し、改憲しようとすること自体が病んでいるとしかいいようがない。それも重病だ。 むしろこの憲法を高く評価し取り入れ、政策に反映させている国々があることを、国際問題フリージャーナリストの伊藤千尋さんは、彼の著書『9条を活かす日本』の中で書いている。わたしは一介のろくでもない人間だが、そんな自分を大切に見守り育ててくれ、用い続けてくれている主の教会で、「最も尊重」されることを味わうことが出来ている者として、現憲法を活かす政策を打ち出せる人と政党を待ち望みたい。

 

2019.9.1「私もそろそろ・・・!」

 

最近私の車の買い替えが取りざたされるようになった。16年間乗り、18万6千�走り、外傷が目立ち、いろいろガタが出て来ているからである。車はワンボックス7人乗り。私は緑野教会時代から多勢乗れる車に乗り継いで3台目である。その理由は、家族が多かったこと、保育園の3歳未満児の公園などへの送り迎え、教会への来会者の送り迎えなどの多目的利用。追分に来てからは、お年寄りや障がい者のためのリフト付きにしている。このリフトを一番利用されたのは、故堀多恵姉。その次が故守臣師。現在リフトの利用者はいない。事故を起こした事はないが、ボディーに凹み傷や擦り傷が絶えず、修理は一切せず絆創膏(ガムテープ)で済ませているので外見は醜い。しかし2,999ccのエンジンは依然として調子がよく馬力もあるのでなかなか捨てがたい。これだけ付き合ってくると、「物」というより「同伴者」として愛着が募ってくるのが不思議である。これを人との付き合いにオーバーラップしてみると面白い。人も歳を重ねると体の表面も老化現象は歴然としてくるし、体の内側も不都合はいろいろ出てくるが、人は新車と取り替えるわけにはいかない。長い人生で沢山の苦しみ、悲しみ、壮絶な経験も豊富だっただろう。今は何も出来ないと嘆く。事実何も出来ないかもしれない。でもあの笑顔でいてくれるだけで周囲は暖かくなる、安心できる、そこに座っていてくれるだけでいいのだ。その存在価値は計り知れないのである。愛着の湧いたボロ車どころの話ではない。この夏の礼拝コンサートのテキストには人間関係のあり方を問う箇所が多かった。説教において倫理的アプローチは慎重にというのが原則なのだが、人間関係のノウハウは具体的で、ご時世柄案外会衆や初めて来た方々にも受けたのかも知れない。お褒めの言葉が多かったように思える。老人となると同じ言葉であっても、説得力が増すといわれているが、私もそろそろご老人の仲間入りをさせてもらったような気がし始めてきた今年の夏であった。

 

2019.9.8「キリエ・エレイソン」

 

夏の礼拝コンサートのプログラムには、教団が1965年に告白した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を毎回添付掲載した。おおよそ人とその社会が赦されざる大罪を犯した場合、その咎は赦されたとしても、謝罪の思いと言葉はことあるごとに繰り返し表明してこそ、人生に前向きに向かうことが出来ることは歴史が証明していることである。聖書の民は神の前に犯した罪過と赦しの出来事を、その後の新生の原点として覚え続けてきたではないか。例えばイスラエルの「過ぎ越しの祭り」は出エジプト解放の出来事の想起であり、のちのバビロン捕囚と解放などもオーバーラップされていると思う。新約時代の今はクリスマスやイースターがそうであるし、毎週の聖日礼拝にその意味合いが多分に継承されているのだ。我が国が隣国の朝鮮や中国へ侵略をした歴史的罪過は、太平洋戦争の敗戦によって裁かれた。我が教団はその戦中に国策によって成り、侵略戦争に協力した歴史的罪過を犯したのだ。教団は「戦責告白」に基づいて、韓国の基督教諸教団や在日教会への謝罪をなし、宣教協約を結び継続し続けている。敗戦後74年を経た現在でも、彼らとの交流において過去の過ちへの懺悔の思いと言葉は欠くことを知らない。しかし日本社会は、未だに「朝鮮蔑視」から解放されていない人々が根強く残っているのは残念なことだ。今月2日発行の「週刊ポスト」が「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんていらない」という韓国の特集記事を掲載した。なんと発行元は「小学館」だ。そこには数々の「ヘイト」むき出しの見出しがついているそうだ。その背景には、安倍政権が「慰安婦の少女像」「徴用工」問題で日本の植民地支配の歴史に向き合おうとせず、侵略戦争そのものを否定するグループ(国民会議)と組んでいることが背景にあることは間違いない。同日ドイツ大統領は、ワルシャワで開催された「ナチスのポーランド侵攻から80年の記念式典」で謝罪し、両国の首脳が鐘をならして平和への誓いを新たにしている。この式典にはヨーロッパ各国や米国副大統領らが参列している。8月15日は韓国が日本の植民地から解放された記念日「光復節」で、韓国大統領は「今からでも日本が対話と協力の道に踏み出すならば私たちは快く手を握る」とラブコールを送ってくれたが、この日安倍首相は、靖国神社に代理を立てて玉串料奉納をし、遺族や天皇皇后、衆参両議長等と共に「全国戦没者追悼式」に参列していた。その式辞で「戦争の惨禍が二度と繰り返されぬことを願う」と言ってはいるものの、歴代首相のように侵略戦争への反省など一切言及はなかった。主よそんな首相を憐れんでください。

 

2019.9.22「きになることばかり」

 

木になる美味しい果実の恵み豊かな秋到来。しかし大いに「きになること」のオンパレードには気が滅入るこの頃だ。その中でも人の命や人権に関わることで心が痛むことが数多く、爽やかな秋空の下に渦巻いている。大型台風よりも由々しきことである。19日の『信毎』誌上から拾ってみた。消費税増税、豚コレラ問題に続いて、「出口見えぬ日韓関係」。相変わらず兄弟喧嘩の応酬のエスカレート問題は、どう考えてもその根っこに日本の朝鮮半島侵略を歴史的史実として認めない、差別意識丸出し(従軍慰安婦像、徴用工問題)の政治的態度があることは明白なことで、8日のこの欄で述べたところと同質だろう。また、来月22日「即位礼正殿の儀、政府が細目を了承」、「大嘗祭 栃木・京都の斎田」「即位祝う国民祭典“嵐”に出演打診」等の記事報道も大いにきになることだ。何故なら「大嘗祭」そのものは皇室の私的宗教行事であると言いながら、国家的行事に他ならないからであること。さらに「大嘗祭」が明らかに、一人の人間として大祭司であると同時に、祭神となる儀式だからだ。「象徴天皇」という訳の分からない存在において国体(戦前の天皇制国家)が保持されたとの認識が、いよいよ市民権を獲得する絶好のチャンスと狙う現政権の思惑と、現政権の数々の失政への国民の批判をかわすことが、オリンピックフィーバーと相まって見え見えではないだろうか。長引くイエメン内戦もサウジアラビアとイランとの代理戦争と言われているが、石油の供給への影響云々ばかりが言われていて、こどもや一般市民犠牲の圧倒的深刻さについては世界の目はほとんど届いていないとのこと。また長野県でも『信毎』が問題視している、知事や市町村の長たちが護国神社や招魂社の例大祭へ公費で出席する問題が報道されている。自治体の長たちが、習俗とか信教の自由だとか言って公私混同することが、ひいては他宗教者たちへの圧迫を与えるものだと報じているが同感である。突出した軍事費計上や福祉切り捨ての予算編成もきになるし、これら「きになること」の根っこはみな太い線でつながっていると思えるのだ。

 

2019.9.29「異教と異常社会の中で!」

 

昨日は教会奉仕者ミーティングを開催しました。開会の私の挨拶の言葉「教会奉仕者ミーティングはじめの言葉」を文章にし、参加できなかった会員・教友の皆様の週報ボックスにお配りしましたので、是非ご一読ください。その挨拶の最後に「教会奉仕者の醍醐味は、奉仕を通して、そこに集められている人々との出会いとその交わりに、主の祝福と恵みを受け取ることができることである」と述べました。このことは異教社会にあり、この世の「富」という価値観に縛られている時代とその社会において、主の教会が果たすべく集められていることの本質に拘わることとして大きな意味を持つことの確認でもありました。「異教」と「富」の問題は、偶像崇拝という、キリスト教の唯一信仰にとっては、最も注意し、心せねばならない事であります。例えば、長野県知事が長野県護国神社の支援組織「崇敬者会」の会長に就いており、同神社の鳥居修復の趣意書に名を連ねていることが、憲法の政教分離原則に違反するとして県会で問題視されています。これに対し知事は個人的な信仰におけるものであると反論しています。これは靖国神社へ国会議員が大挙して参拝することと同質の問題を持っています。玉串料などみな自費で行っており、これも個人の信仰の自由権であると主張しています。法違反であるかどうかの判断は難しく、戦没者への慰霊の念を、公職にある者が捧げることを否定することを訝る人は多いと思います。しかし神社に祀られている故人はみな英霊、つまり神として祀られているのですから、キリスト教の立場からは明らかに「偶像崇拝」となります。そして靖国神社や護国神社には、国家の軍事的背景があるのですから、国家的「富」の追求という目的遂行の思惑があることも明白です。山口県護国神社への自衛官合祀拒否訴訟を支援した時に知ったことでありますが、「合祀」は正式には「相殿奉斎」と言い、「天照大神」とその「万世一系の天皇」が祀られている社の軒下を借りて祀るという意味を持つのだそうです。つまり靖国神社は、現在の「天皇制」と切っても切れない関係にある神社なのです。一方、世界で唯一の原爆による被爆国である日本は、国際社会で核廃絶に背を向け、原発推進を進め、地球の温暖化削減にも消極的です。隣国へのヘイトに明け暮れし、軍事費だけはうなぎ登りですが、民生には厳しい予算措置が行われています。乳幼児をはじめ弱い立場の人々が切り捨てられ、殺されていく社会であるからこそ、主にある交わりの喜びと恵みの現実を味わい知り、かくのごとき社会に分かたれていくキリストの教会でありたいと祈ったミーティングでした。